D 白河の結城氏

結城氏の祖は小山下野大掾政光である。小山氏は天慶の乱(935~940)で、平将門を打ち滅ぼした藤原秀郷の子孫である。小山政光は、その三人の子息、朝政、宗政、朝光らと共に、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵のころから深い関係にある。

陸奥の藤原氏はあっけなく滅亡した。頼朝はこの一戦によって、奥州二州(奥州・羽州)を平定し、全国統一の宿願を成就させたのである。頼朝は凱旋の帰りに、結城の結城朝光の館に立ち寄って数日間宿泊したという。そして更には、押収した藤原氏の財宝を与えた。現在のお金では、1000億円以上である。故に「朝光は頼朝の実の子に違いない」という説が出たのである。

結城家は宗家と白河家の二派に分かれました。宗家に常に白河に対する反感あったのです。白河結城は士馬精強で宗家を凌駕していていました。しかも、宗広父子は勲功によって建武元年(1334)正月、勅諚によって結城一族の総領に揚げられた。それゆえに宗家は、白河家に対して反感を持ちました。

結城氏の一族に小峯氏があり、白河結城の長老として代々白川城近くの小峯城にいた。小峯三河守朝修が古川公方足利政氏のために、手柄を立てて、その威勢は宗家を凌ぐほどであった。これをねたんだ政朝は、永正七年(1510)2月、不意に小峯城を襲撃して、朝修を殺したが、それ以後、国内が結城派と小峯派に分かれて紛争を続けるようになったのです。

(『M結城一族の興亡』府馬清著者より)

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