D 松平定信公と立教館

((松平定信公)

寛保二年松平(久松)定賢が越後から白河にやってきました。その子定邦の養子が定信である。定信は宝暦八年田安宗武の次男として生まれました。宗武の父は将軍徳川吉宗であります。定信がもし田安家に残っていれば、将軍になっていたであろうと言われています。

定信には「私心を雑えて政治をするようなことがあれば、命を召してください」と神仏に祈りました。そして、いつも辞表を懐に抱いていました。定信には、このような至誠の精神がありました。

賀川豊彦の人物批評)

白河の楽翁公はわずか26歳の頃、天明の飢饉にあって、白河の領民を助けた経験がありました。後に幕府の政治に携わり多くの実績を上げました。今日なお、彼の社会事業を私は讃美するものです。

[「立教館」を開講]

松平定信公は寛政3年に藩校として、小峰城近くに「立教館」を開校しました。定信ほど多くの人と交流し、人脈・人的ネットワークを形成し、それを政治や文化活動に活かした人物も稀である。山本有三氏が紹介した長岡藩の「米百俵」の精神にも影響を与えたという。なお領民の教育にも力を入れました。今の白河市と須賀川市の二ケ所に「敷教舎」という学問所を創設して、学問と道徳の向上に努めたのです。

 

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