紙上説教 2017/7/2

私が信仰できるということ、それ自体が神様のみ業であるのです。神様に愛されているからこそ信じることができるのです。

私たちは、真のご父母様からの最高の賜物を受けた者たちなのです。『ご父母様を慕うことが出来る』こと自体が、神の心情の瞳であり宝物なのです。

真の神様は私たちの心にこそ住まわれます。故に、「良心は両親に勝り、先生に勝り、神に勝る」と文先生は何度も語られたのです。自分の心の本心からの直感に従おうとすることが”祈り”のです。それを実行する為には勇気が必要です。今の私たちに、一番欠けているのはそのような『祈りの気持ち』ではないでしょうか。

良心からくる直感は『私が何を願い、そして私が何者になりたいのかを知っている』のです。

アブラハムに対する神の意図として、”イサク献祭”は理解ができなかったと思われます。愛の神が、何故に息子を殺せと命じるのかは分からないというのです。私たちの信仰生活の中にも、このようなことは時にはあるのです。理不尽な神のメッセージなのです。しかしこのメッセージは、自分へのものとアブラハムは確信をしたのです。困難であり辛く嫌であっても、”自分宛のものである”とそれを受け取る勇気が必要なのです。そして、私の幸せの為のものであるという確信を持たなければなりません。

人生は『、食べて寝て、行ったり来たりするのが人生』だと文先生は語られます。その同じような人生を、誰を中心に、何のためにするのかということが重要なのです。『人の為に、家族の為に』生きる人生こそが、霊界での天国生活に直結していくものなのです。    

祈り

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