紙上説教 2020/6/28
≪紙上説教 2020/6/28≫
聖書にある『助け主』とは、“パラクレートス”聖霊のことです。真理と神霊とによって、神様は天の父母様であることを教えてくださるのです。そして、私は天の父母様と初めから共にいて下ったものであることを教えてくださるのです。
しかし、その父母なる神様が拘束されているというのです。天主教は聖母マリアに救いを求め、新教は“イエスを全てただ信ぜよ”と言って来ました。浄土宗は阿弥陀に帰依せよ言い、禅宗は光の内に座れと言ったのでした。
宗教とは一体何でしょうか。統一原理は盲目的な信仰を望みません。神様を解放する“私”であると主張します。恐れから信ずることは、大人なのに子供として他に依存し、安易に委ねることに他なりません。
神様は時として間違いから学ばせることさえして、私たちの成長を願います。小賢しい知恵で満ちた器でなく、“真の愛”と“心情”で満たされた器としての子女を願います。その意味で信仰生活とは、本当の自分だけが残るようにするためのものなのです。
聖書は『人は外を見、神は内を見る』と言います。詩篇24篇に「どのような人が主の山に上り、聖所に立つか。それは潔白な手と心を持つ人」とあります。私たちは、熟年期を迎えた祝福家庭が多いのです。欲心や名誉心に由来する極端な選民意識から離れて、正しい神氏族メシヤの自覚を持つべきです。人の注目を集めることから解放された時にこそ、神様と共にある自分となり、与えられた能力を発揮できると思うのです。私が本当の自分を取り戻すことを通じて、天の父母様であられる神様を解放できるものと確信するのです。
祈り