B 棚倉町(YS兄弟)2017/2/8
私が文鮮明先生を知ったのは、1986年21歳の頃で3日修練会に参加する時でした。家から教会まで片道1.5時間を毎日往復をしました。2日修練会では魅力を感じられず、自分とは関係がないからと止めようと思いました。その後3日修練会の前に、30分ほどの文先生と統一教会紹介のVTRを見てから参加しました。
私はメシヤ、救世主、真の父母という文鮮明先生を知るようになりました。驚くことに修練会から帰る時には、私はみ旨に献身することを決意していたのです。人の為に人類の為に生きて来られた文鮮明先生を知り、私も何かをしなければばらばいという使命感に燃えたのです。
しかし次男ではありますが跡取りの私が教会に飛び込むこは、父を裏切り家業にも支障が生じます。私は葛藤の中でやがて置手紙をして家を飛び出しました。
私が文先生と直接にお会いしたのは、1988年23歳の時でした。み旨の為には命を懸けるような意気込みで活動していました。その頃に、韓国の龍仁で6500の祝福を受けました。初めて会った相対者と共に、膝詰めの窮屈な中で日本語で5時間の文先生のみ言をお聞きしました。
『祝福は先祖や後孫7代を観て決める』との文先生の言葉が印象に残ります。そして皆に『キス』をするように突然に促され戸惑いました。その時の先生のお心とお姿は、まさしく『私の親である』と思うことができたのでした。
これまで妻が婦人部長の12年間は、夫である私には悩みと葛藤の連続でした。しかし、2016年秋に清平ツアーで教会の公館に入ることができました。その時に私とは次元が違いますが、家族をもすべて犠牲にされみ旨を歩まれた真のお父様のご心情を共感することができたのです。
感謝