ピースロード(引き継ぎ式)
2017年7月27日午後三時、白河市内の小峰城の敷地内においてピースロードの引き継ぎ式を行いました。北海道から東北に連結された旗と自転車の第二地区(東北)から第三地区(関東)の栃木県に連結するものでした。福島県の讃井実行委員長、栃木県の沈実行委員長の列席のもとに20名近い教会員が集まりました。一同、真のお母様(韓鶴子)を中心に出発した世界平和を願うピースロードの精神を確認できました。半島の南北統一は勿論、政界平和の祈りを込めた折鶴を関東にお渡し致しました。
1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は53年7月27日に停戦となりました。そのような日にこうして連結式をすることができたのです。東北の中心は雄藩である伊達政宗築城の青葉城でした。その出城が片倉小十郎築城の白石城です。宮城県にはこの二つの城しかありません。『成約時代と真の父母』のみ言を真のお母様が宣布されたのは、この白石市のホワイトキューブでした。ここは38度線が通り、白石板門店と名付け日韓友好記念日を立てられた方がおられます。新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとして亡くなられた、韓国釜山の青年と日本の青年を讃えて建立したものなのです。白石城から右の翼は米沢・会津・長岡へと向かいます。左の翼は相馬からいわき平に向います。そして中央が国見・福島・二本松・安積・須賀川そして白河に向うのです。1868年、150年前の戊辰戦争では小峰城を舞台にして5月1日白河口の戦いがその口火を切ったのです。
また白河は陸奥(奥州・羽州)の玄関口でした。芭蕉は奥の細道で、いかに白河の関を越えるかと憬れたのです。しかし同時に災いもこの地からもたらされました。天皇に任命され征夷大将軍として坂上田村麻呂にはじまりここを通過しました。源頼朝は鎌倉を出発し奥州藤原氏を制圧しました。関白豊臣秀吉は会津仕置の為に7月21日江戸を出発し、宇都宮には7月25日に入りました。征夷大将軍の徳川家康も秀吉にならい、会津の上杉景勝を撃つために江戸を7月21日に出発し25日には宇都宮に入ろうとしたのです。
25日は小山評定となり、1600年9月15日の天下分け目の関ヶ原の戦いになります。
宇都宮とは日光(二荒神社:ふたら)を移したという意味と、蝦夷東北を打つという意味があったのです。その和解の意味をも越えてピースロードの引き継ぎが行われました。
1868年の戊辰戦争で二本松と会津の少年たちが国である藩と家族を守るために戦いました。それが会津白虎隊であり、そして1917年には二本松少年隊と命名されました。
小学生の高学年のような者まで戦いました。老人や婦女子までが命を懸ける姿をみて、欧米列強は日本の植民地化を断念したようです。その武士道精神は、大東亜戦争の益荒男の姿となりました。しかし、不幸な戦争ではありました。このような青年達の精神により、アジア・アフリカの国が独立できたと日本に感謝もするのです。
真のお母様がみ旨の特攻隊になれとのみ言を受けて、白河家庭教会では祝福二世の兄弟二人が疾走してくれました。世界平和を実現してまいります。 感謝