D 吉田松陰白河を通る

勿来の関を越えて白河に入る(東北歴遊には、友人宮部鼎蔵と江幡吾郎よの約束のため)

吉田松陰は嘉永5年(1852年)に会津を訪れる。戊辰戦争の17年前のことでありあT、松陰22歳であった。

江幡吾郎との別れを惜しんで、白河に三泊している。1月28日、江幡と別れる。白河を出て小さな坂を越えて少しいくと会津街道がある。宮部は「吾郎、吾郎」と叫んだという。江幡吾郎は悲しみをこらえて振り向かずに直行したという。松陰と宮部とは姿が見えなくなるまで見送った。しかし彼らは、宮城県の白石で再会したのである。

この東北歴遊の目的は、北の守りの視察であった。福島に来県した目的は二つあったといわれる。湯島天神にあった昌平黌の学長、安積艮斎の授業を受けることであった。そして山鹿流を学ぶ修めた松陰は、山鹿素行(1622)の生まれた会津を訪れ、一週間滞在したのです。東山温泉に浴しもしたのです。約80日間東北を周遊しました。山形の米沢から檜原峠を越えて再び会津領に入る。

やがて越後新潟の地に入る。蝦夷の北海道に行きたかったので出雲崎に待ちます。37日間滞在します。しかし海が荒れて北海道には行けず、佐渡島にようやく行くことができただけでした。出雲崎では良寛禅師のゆかりの曹洞宗『光照寺』などを訪れました。出雲崎の滞在は13日間でした。

 

『吉田松陰の東北紀行』滝沢洋著より

 

 

 

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