紙上説教 2017/7/9
聖書の中に“逐語霊感説”というものがあります。イザヤ書34章16-17節、テモテへの第二の手紙3章16節がそのことを示す聖書のみ言です。聖書は”神の書”であり一言一句神の言葉であるというのです。
私たち“世界平和統一家庭連合”の立てる伝統とは、家庭を中心とした訓読です。釈尊は“自燈明”“法燈明”という遺言を残しました。そのことのように、私たちは祝福を受けた自分の家庭を誇り、真理のみ言を頼りに生きるべきなのです。神様の祝福の血統に立つ私を誇り、誰をも、また何をも頼ってはならないとの言葉でした。今日の私たちにとっては、真の父母様とそのみ言のみと一つとなって生きていくのです。
“個人”(インディビジュアル)とは、これ以上分けられないという人格を言います。私の個性人格は神に由来するのです。その神から来る個性のゆえに、尊貴性があるのです。
“我”という言葉は“鋸(のこぎり)”という意味で、全体から部分を切り離すことを意味します。我を張れば皆を傷つけ自分をも傷つけてしまうというのです。
“吾”(われ)とはどういう意味の漢字でしょうか。“器に蓋をしている状態”を意味します。この器には何を意味するかと言えば、祝詞(のりと)を入れるのです。神への祈りの言葉を守る存在が人間です。人間は神に祈る存在であるというのです。
バウンズは“人間のなし得る最高の業”が祈りであると主張します。そしてみ旨成す、最高の方法が祈りと言えます。『内なる人は日ごとに新しくされる』(コリントⅡ4章16節)と聖書にあるのです。
神のみ言を聞き、そして祈る者はいつも新鮮で力あるはずではないでしょうか。
祈り